先日、NHKで「立憲主義と民主主義」というテーマの放送がなされていました。
改めて、民主主義を考えさせられました。
皆さん、民主主義は、いい事だ。正義だと盲目的に思いこんでいませんか。政治は、民衆の手で運営されるというのが民主主義。対局にあるのが独裁主義。
でも、ヒトラーもムッソリーニも民衆から選ばれた民主主義に基づいて生まれてきた独裁者です。
民衆というのは、自己主義で、また、周りの雰囲気に流されやすく、ややもすれば、煽動に乗りやすいのです。民衆だけの政治は、愚衆政治に陥りやすく、少数派の人権侵害が生じたり、また、国家が困難な局面に面したとき、意見がまとまらず、何らの対策が取れず、状況が悪化するということもなります。ひどい状況でも現状維持の状況に陥り易いのです。ヒトラーやムッソリーニが生まれた時代も、第一次大戦後の経済的困窮状態を脱することができない状況にストレスを貯めていた民衆が、民主主義に失望し、ヒトラーやムッソリーニという一人の英雄に国家の運営を委ねたというものです。(無論、ナチス党の国民の支持率は、格段に高くなかったなど、史実はもっと複雑ではありますが…)
 他方、立憲主義とは、行政府に対する制限で、憲法に基づいて政治がなされるというものです。無論、民衆がいくら望んでも憲法に反することはできません。民主主義に制限を加えるものです。では、立憲主義は、民主主義に反する制度でしょうか。NHKでは、立憲主義について、「死者の民衆の意思」という言葉を使っていました。なるほど!!素晴らしい表現です。憲法制定時の民衆は、民主主義は、もともと危険なものであることを認識して、一定の歯止めをかけたものと言えます。制定時の民衆が当時の民衆のみならず、子孫である未来の民衆に対しても制限を設けたものなのです。
 憲法改正手続きは、死者の民衆意見をどう反映させるかのシステムであるわけです。コロコロと容易に憲法を改正し、死者の意見をほぼ無視している国も多くありますが、日本の場合、硬性憲法と呼ばれ、その改正には、相当のハードルを設けています。現代の政治に死者にも投票権を与え、死者の意見をも現代の政治に反映させるシステムといえます。
 人間は、一定の周期で馬鹿なことを繰り返します。株バブルもしかり、一定の周期で発生します。世代が変わると過去の事を実感できないのです。歴史は繰り返される。ひどい事態を経験した当時の民衆が憲法という形で、過去の歴史を振り返らない将来の民衆を戒めることができるようにしたのです。
 日本国憲法が日本の国民の意思に基づいて制定された憲法か?という事に対しては、異論のあるところです。しかし、当時の民衆では、過去に学んだ憲法を制定する能力に欠けていたとも言えます。幼少からの教育は、そう簡単に変えることはできません。
 その意味で、マッカーサー草案は、それ自体、過去の人類過ちを反省し、国家の理想の物として、純粋な気持ちを持つ学者によって起草されたものです。世界的な平和を願う民衆の意思が反映されたものとも言えます。与えられた憲法でも、国民が受け入れたものであり、やはり日本人の憲法と言って良いと思います。当初ためらいがあろうと使ってみるととてもいい物であったということは良くありますね。それでいいじゃないですか。
 実は、日本の法律は、憲法改正の要件である国民投票の制度の記載が欠落しており、今、憲法改正手続きに入ることができない状況にあります。安倍首相は、憲法改正を目指しているという報道がなされたりします。私は、憲法改正自体の是非については、悩んでいるところではあります。これから十分議論すべき事項とは思います。が、憲法改正の手続き方法は、国内法としてきちんと確立していないといけないと思います。死者の投票権は尊重されはすれ、あくまで絶対的なものではありません。
(弁護士黒田)