関西では、徳川は人気が無く、太閤秀吉贔屓の人が多いですね。でも、豊臣家が大阪の陣で勝っていて、徳川の勢力が衰える様な状況になっていたら、日本はどうなっていたのでしょう
戦国時代頃(近世)なると、日本と世界の関わりは、対中国大陸のみならず、ヨーロッパの事情も考えずにはいられません。大航海時代、ヨーロッパの覇者スペイン・ポルトガルは、南米のみならず、東南アジアにも植民地を広げていました。(フィリピン)、ポルトガル(マレー半島)。スペインとポルトガルは同一国王が兼務することになり、スペインは、太陽が沈まない国として、世界の覇者となっていました。スペインの植民地政策は、カトリックを先ず、広げ、住民をカトリック教皇の僕(しもべ)とし、その地を支配するというものでした。
ところが、盛者必衰の理。日本では戦国時代末期の1588年新興国イングランドがスペイン無敵艦隊を破り、その頃、スペインから独立したオランダも商業に力を入れて、各国が世界の覇権を争っていました。江戸時代初期、大量の武器を積んだオランダ船が日本に漂流し、当時5大老の筆頭だった家康がオランダと強いパイプを持つことになります。
オランダは、商売での決済手段であった、当時世界有数の銀の産出国日本の銀を目指して、日本に盛んに武器を売り込む。商売敵スペインは、南米の銀を支配していて、新興国オランダは、とにかく銀が欲しかった。また、オランダは、スペインに勝ったくらいであるから優秀な武器を持っていた。
劣勢に立たされたスペインは、日本覇権の手段として豊臣方に肩入れする。物資の補給は勿論、キリシタン大名を豊臣方に味方させて、多くのキリシタン武士、農民を大阪に結集させることも働きかけた。
このように、江戸初期は、日本を舞台にスペインとオランダの覇権争いがなされていたのです。面白いのは、オランダ戦が漂着したとき、カトリック宣教師達は、これは海賊船だ、船員は皆殺しにしなければならないとかなり圧力をかけていた様です。宣教師さん達、神に仕える身なのでしょうが、異教徒(プロテスタント)オランダ人を、彼らは、人とは思っていません。
大阪冬の陣後半、射程距離の長いオランダの最新兵器カルバリン砲が到着し、直接大阪城をぶっ壊しました。淀君がびびり、大阪冬の陣が終わり、その後、夏の�陣で豊臣は滅んだ。その後、禁教令でカトリック勢力が日本から駆除され、スペインは、日本を巡る覇権争いに敗れることになるのである。
私は思います。もし、豊臣方が勝っていたら、豊臣勢力は、カトリック勢力に対抗できたでしょうか。カトリックは、ドンドン日本に広げられ、スペインの目論見とおり、人々は豊臣家ではなく、カトリック法王に従う様になって、フィリピンや南米の様になっていたかもしれません。
世界屈指の強大な武力を有していた戦国時代日本は、ヨーロッパ強国も簡単に手出しできない国です。鎖国・禁教令によって、スペインの宗教による同化政策を免れることができたわけです。
このように考えれば、徳川の世になったからこそ、日本の独立が保たれたとも言えます。
ps、東南アジアを巡るスペインとオランダの闘いはその後も続きます。オランダは、徳川の許可を得て、戦国が終わって、失業した武士を傭兵とし、東南アジアのスペインの拠点を攻めます。日本傭兵は、戦争のプロ集団です。とてつもなく強い。オランダは、スペインの拠点の多くをぶんどりました(フィリピンも危なかった)。