10月30日、韓国の最高裁判所にあたる大法院は、元徴用工の韓国人4人が新日鉄住金(旧新日本製鐵)に損害賠償を求めていた裁判で、同社に計4億ウォン(約4000万円)の支払いを命じる判決を言い渡しました。
徴用工とは、第二次大戦中に工場などで強制労働されたとする人たちの事です。1965年の日韓請求権協定によって、日本が韓国政府に多額の経済協力金を支払いました。この協定により、「安全かつ最終的に解決された」として、日本の戦後の日韓関係が構築されてきました。韓国は、日本からの経済援助金を個人に振り分けることもできたはずですが、これを国内のインフラ整備に充て、「漢江の奇跡」という経済成長を成し遂げることができました。
確かに、国家間の合意したからといって、なぜ個人の請求権が失うか?国家の合意に国民が参加していないのであるから、勝手に個人の権利を失わせることはできないという韓国裁判所の判断にも一理あるところです。
これに対し、国際的な常識から逸脱しているとして、あちこちでいろいろ書かれていますので、その点については、割愛します。私が今回びっくりしたのは、韓国の裁判所がこのような他国を巻き込んだ条約にも関わる高度に政治的な事柄に首を突っ込んで判断をしたことです。
日本だと、統治行為論を使うなどして、最高裁は判断しないと思います。統治行為論というのは、つまり、国家の行く末に関わるような高度に政治的な事柄については、裁判官が、「私ら、国民から選ばれていないし、単に法律家に過ぎません。間違った判断しても政治的な責任も負いません。そんな私らが国家の行く末に関わるような重大な政治的事項について、判断していいんですか。国が無茶苦茶になってしまうかもしれませんよ。責任追いませんよ。いいんですか?。ダメでしょ、だから、判断しません」というものです。
また、最高裁ではありませんが、自衛隊の憲法違反が問われた裁判(長沼ナイキ訴訟という法律家には有名な裁判です)で、高裁が、この統治行為論を使って判断を避けています。
私は、国の行く末を、法律の専門家に過ぎない職業裁判官に委ねることは、危険だと思いますし、判断を委ねられた裁判官も相当なプレッシャーになるのではないかと思います。また、最高裁判所の裁判官を行政のトップが選ぶ制度の場合、裁判所を隠れ蓑にする独裁者が現れるかも知れません。政治は、1+1=2となるとは限らない世界です。裁判官は、神様ではなく、むしろ、1+1=2の融通の利かない機械だと思いますので、条約に関わるような高度に政治的な事の判断を少数の裁判官に判断させるのは、良くないというのが憲法学的見地からの私の結論です。なんだか、昔の司法試験の問題の様な議論になっちゃいましたが、憲法を身近な今回の事柄をテーマに論じてみました。
(黒田)