2回にわたって、精神面、金銭面で法科大学院生は大変なことをお伝えしました。予備試験についてもご紹介しました。
翻ってみると、果たして、法科大学院は必要なのか?ということを考えたいと思います。
元々、大昔から議論されていた司法改革の議論の中で、法科大学院構想が起こりました。
確かに、旧試験時代は、司法試験は難しすぎました。私の師匠弁護士は、「ワシが、唯一皆から褒められるのは、ワシの時、合格率が1.6%だったこと。昔は、賢かったんですねってよく言われるけど…」とよく冗談を言われます。そこまで難しくする必要は無いと長年実務に携わってきた私は断言できます。
ここまで、難関だと、当然、合格年齢が高くなります。30歳近くまで、合格平均があがってしまうと、一番困ったのは、検察庁と裁判所です。年下が年上の上司になるのは、どうも座りが悪いのです。景気がいい時代なので、若年合格者も弁護士を志望し、人材が集まりません。他方、弁護士も、経済活動が活発な都市部に固まり、地方には、弁護士がゼロ、あるいは一人という地域がありました(ゼロワン地域といいます)
司法改革は、すっと叫ばれながら、なかなか、改革は進みませんでした。
こうした中、バブル後の長期不況を脱する手段として、「規制緩和」が強く叫ばれる時代が訪れました。弁護士業界にも「国民無視の既得権益にしがみつくギルドである」と強い非難が向けられました。
こうした中、アメリカのロースクールを参考にした法科大学院構想が持ち上がり、あれよあれよという間に、法科大学院制度を前提とした新司法試験制度が発足したのです。
そして、十分な議論がなされることなく、見切り発車されたのが現状の法科大学院です。
アメリカのロースク-ル制度をモデルにしています。アメリカは法学部が大学にありません。法学部がある日本と大きな違いがあります。
日本のことわざに「杓子定規(しゃくしじょうぎ」というのがあります。思いこみで、1つのやり方や決まりをほかの事にも無理矢理あてはめようとして、融通がきかないことを言います。「杓子」とはみそ汁やご飯をよそう道具ですね。曲がっている柄(え)を、無理矢理定規の代わりにして物を測ろうとすることから言うようになったことわざです。
次回、日本の法科大学院とアメリカのロースクールが如何に杓子定規の関係にあるかをご紹介したいと思います。実にバカバカしいお話ばかりです。